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■ 名将軍と言われた8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」における社会奉仕

 吉宗の治世は1716〜1745年の約30年です。善政としてまず「目安箱」の設置を挙げます。それまではお上への直訴は「お上のご政道に口を出す」ことになり死罪が定法でした。この目安箱に投書した小川笙船(おがわしょうせん)、この人は「赤ひげ先生」の愛称だったそうで、黒沢明監督の「赤ひげ」のモデルとなった人ですが、この笙船の提言を採用して福祉行政の先駆けとなった小石川養生所を作り、入所者の治療費も食費もただにすると共に、投書した町医者の笙船を初代の所長に任命しました。就任するに当たって笙船は、漢方薬の国産化を就任の条件にあげましたが、吉宗は、儒学者の青木昆陽に命じて、小石川養生所の脇に小石川薬草園を作らせ国産化の実験をさせました。
 家禄2000石、40歳そこそこの大岡忠相を、江戸町奉行に大抜擢しました。家禄2000石の大岡を、晩年、大名でないとなれない寺社奉行に登用できたのは、足高の制、即ち身分は軽くても能力あるものを登用するために役職の間だけ役料を加算する制度を作ったからです。この制度は、能力本位の登用を可能にしました。
 吉宗は、「火事は江戸の華」と言われた火事に対処するため、大岡を通じて、土蔵造りや瓦屋根を奨励し、大名火消しや、続いていろは48組の町火消しを作り、以降明暦の大火のような大火災は起きませんでした。
 吉宗は、米の増産を大いに奨励しましたが、享保の大飢饉が発生しました。このとき吉宗は、定免制を採用して計画的に備蓄していた米を放出して救済に当たりましたが、それでも全国で97万人の餓死者が出ました。吉宗は、以前は餓死者が多かった薩摩藩が、甘藷栽培の技術を身につけてからは、享保の大飢饉でも餓死者が出なかったことに目を付け、青木昆陽に命じて、甘藷の試験栽培をさせ、後に奨励した結果、餓死者がなくなりました。
 文化性を高めるため、それまで洋書輸入禁止であったものを緩和して、キリスト教以外のもので漢訳された本の輸入は認めました。青木昆陽にオランダ語習得を命じたように、実学を奨励しました。その他、外国の生活道具、動・植物、鳥などを輸入し、江戸城に植物園や動物園を作り、市民に公開しようと考えました。
 吉宗は、町人などの訴訟が役所の怠慢によって進まないことに注目し、奉行所に対しては訴訟が10ヵ月以上滞っているものは報告させ早期解決を促すと共に、目安箱に投書された訴訟はどんどん取り上げたので、訴訟がスピードアップしました。また、訴訟が遅れる根本原因は、基準となる成文法典がないためであるとして、刑法と民法を合わせた裁判法規である「公事方御定書」を作らせました。この制定過程で、公文書が無整理でばらばらに保管されていることを知り、過去の判例などの公文書を効率的に有効利用ができるように整理・保存する必要性に気づき、実行させて閲覧も可能にしました。
 このような吉宗の政策を俯瞰的に見れば、江戸開幕以来約100年経って、ゆるんでいた官僚組織や諸制度に活を入れ、活性化させることにあったと思われ、善政を行ったと言えます。
 ただし、吉宗の経済政策は善政とは言えません。伝統的に天領では税率が低かったのに、農民に重税を課した結果、吉宗の治世の後期は百姓一揆が頻発しました。有名な「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほど出る」と言って農民を苦しめた悪代官神尾春央を抜擢したのは吉宗です。また倹約令を出し、武士階級だけでなく庶民にまで華美を慎み倹約することを命じたので、景気が悪くなり商業が衰退しました。これらの政策によって幕府の収入は増加し、幕府財政は黒字化したので幕府組織だけを見れば成功と言えるかもしれませんが、農民や商人にとっては善政とは言えません。
 この吉宗の経済政策を激しく批判し、名古屋で全く反対の政策を実行したのが、尾張藩主徳川宗春で、彼の景気振興策・名古屋活性化政策は大成功をおさめ、現在の名古屋の繁栄の礎をつくったと高く評価されています。
しかし、吉宗に立てついた宗春は、吉宗から強制的に隠居させられ、死ぬまでの25年間名古屋城に幽閉され、死後も墓に金網をかぶせられる罰を受けたことをご紹介して、この話を終わります。(この原稿を作成するにあたっては、井沢元彦氏の逆説の日本史15・近世改革編の論考を参考にさせていただきました。)