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■ 知的障害のある人

 さて、1996年、I県の知的障害者が30人くらい働く閉鎖的な段ボール加工工場で、日常的に暴力をふるわれていた事件が発覚しました。スリッパで耳を何十回と殴られ耳が半分ち切れたり、手錠で柱に繋がれ食事を与えられず地下の野菜貯蔵庫に半日閉じ込められたり、公的助成金で建てた従業員寮では、女性に対する性的虐待が繰り返され、会社の社長や社長の飲み友達などが深夜にやってきて若い女性の障害者をなぶりものにしたのです。被害を受けた比較的知的障害の軽い女性が、警察、社会保険事務所、労働基準監督署、職業安定所と考え得る役所に出向き、虐待を訴えましたが、どこでも話は聞いてくれるものの、そのまま放置され、救いの手が伸びなかったという事件です。
 同じころ知的障害者の虐待事件が相次いで発覚し、国会やマスコミで大きく取り上げられました。その頃から、障害者を守るための制度面の整備が始まり、各都道府県には「障害者110番」という相談窓口ができ、色々な施設を第三者が時々訪れて中の様子をチェックし、施設に改善点を勧告したりする「オンブズマン制度」が広がっていきました。成年後見制度、地域福祉権利擁護事業、運営適正化委員会、第三者委員会なども広がっていきました。なかなか自らSOSを発することができない障害者、特に判断能力にハンディのある知的障害者を救済するための制度や法律が整備されてきています。
 ところがそれからも、障害者の虐待がいくつも発覚しました。制度や法律が整備されても、公的機関は障害者たちのSOSの声を受け止められなかったのです。その根底には、障害者は「かわいそうな人」、障害者福祉に携わるのは奇特な人、そのような人たちが虐待をするはずがない、したとしても障害者にも何か問題があるに違いないから少々のことは仕方がないなどの思い込みが相談を受けた公的機関にあり、放置に繋がったとしか思えません。
 当たり前のことですが、障害を持って生れて来たこと自体が「かわいそう」なわけでは決してありません。障害はその人の個性です。障害故にさまざまな偏見にさらされ、教育を受ける機会を制限され、いじめや差別を受けたり、無視されたりすることが「かわいそう」なのです。福祉現場で殴られたり犯されたりされても、「障害があるのだから少々のことはしかたがない」と、世間や、親からさえもそう思われることが「かわいそう」なのです。勝手な思い込みを排して、もっと障害者の特性を理解し、障害者の気持ちを理解しないと、本当の意味での救済はできないのではないでしょうか。
 先の知的障害者の性的虐待事件については、被害者に知的障害があるため証言能力が疑わしいということで不起訴になり正義が貫かれませんでした。アメリカでは、知的障害者専門の警察官がおり、大学で心理学や福祉を学んで、障害のある人たちから事情聴取し証拠を集めて、公判の場にそれを提出するまでを担当します。日本でも知的障害者の犯罪被害を救済するために、専門の警察官の創設が望まれるところですが、現在は、厚労省で知的障害者専門の警察官についての研究班が立ちあがり、警察官向けの「知的障害のある方を理解するために」というハンドブックができたという段階です。
 日本では、IQ70を境として障害者手帳を渡されるのですが、約40万人の障害者手帳を持っている知的障害者がいます。障害者手帳を持っていない軽度の知的障害者と、高機能自閉症、アスペルが―症候群等の知的な遅れを伴わないがコミュニケーションに障害のある方を合わせると、この種の障害者は百数十万人の多数に上ると言われています。これらの方々が被害を受けた時、または受ける虞のあるときには、救済しなければならない責務が社会にあることを、改めて自覚する必要があると思います。
(この原稿を作成するにあたっては、野沢和弘氏の人権の広場・37号の論考を参考にさせていただきました。)