戻る
■ 日本の子育てのルーツ ―江戸時代の子育て―

 「日本西教史」という、日本に滞在していた宣教師が書き綴った教会史がありますが、その中に日本の江戸時代に入る頃の子育てについて、「日本国にて最も善良なるは少年の養育にて、あえて外国人の及ぶところにあらず、決して懲罰を加えず」とか、天正の少年使節団の態度の立派さに西欧が畏敬の念を感じたとか、「大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ、日本は確かに子どもの天国」「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、子どもの為に深い注意が払われている国はない」「小さな子どもを1人家へ置いておくようなことは決してない」「赤ん坊が温かそうに育児籠に入れられ、目の届くところにおき、子どもの様子を見ながら農業をしている」などと書かれ本国に報告されているそうです。
島原の乱から戊辰戦争までの230年の間平和が保たれたのは、江戸の社会の基盤に子育てや教育・道徳の教えに力点を置いた豊かな人情あふれる社会があったからだといわれています。
 子どもには、羽子板、お手玉、カルタ、双六、福笑い、毬つき、コマ回しなどの玩具が与えられよく遊んでいました。溺愛のきらいがあるほどと言われていましたが、子どもは、子どものできる子守やお使いなどの仕事をして、親を助けていました。さらにひな祭りや端午の節句など子どもの健康と成長を願う行事が多く、乳母、名付け親、烏帽子親などの多くの親がおり、養子の遣り取りをし、地域の身近な多くの人々が子どもを守り育てていた。よい後継ぎを得るための子育て書が150冊も発行されていたそうです。民俗学者の柳田國男が「日本は昔から、児童が神に愛される国でありました」と言っているそうです。
 また、江戸時代の子どもの教育や道徳の教えは儒教に基づくものであり、江戸の子どもたちは寺子屋や家庭で儒教の「五常」の教えを学んでおりました。
「五常」とは、儒教で人の常に守るべき5つの道徳のことを言い、孟子の「五常」もありますが、中国漢時代の儒学書・白虎通義(びゃっこつうぎ)の、仁、義、礼、智、信の五常の解釈がよりプリミティブだと思います。
 「仁」は人を思いやる心。前にお話しした、17歳の少年が、67歳の女性を、「平和ボケは嫌だ。殺しを経験してみたい」という動機だけで殺し、検事の「可哀そうだとは思わないか」という問いに、「だってもう死んでるんでしょう」と何の感情も示さずに答えたなどという例は、「仁」の決定的な欠落です。
 「義」は人として歩むべき道・人の筋道。ロータリーの教えに通じるところがあります。でも現代は、社会の利益を二の次にしてでも自分の利益を優先する世の中になっており、「義」が欠落しています。
 「礼」は法律がこの世に登場する以前からの社会規範で、後にできた法はそのうちの最低限度を定めたもの。法は「礼」の一部です。「礼」は互いの尊敬とする解釈もあります。
 「智」は学問の知恵ではなく、是非を判断する力。イエスとノーが自分ではっきり決められず、人の顔色を見てその意見に同調するなど、今の日本人の欠点を正す教えです。
 「信」は他人を欺かず、自分に嘘をつかないこと。

 ところで、日本は、19世紀後半の文明開化によって急速に西欧化していきますが、儒教国である中国や朝鮮は近代化が遅れました。西郷隆盛が、頑なに近代化しようとしない朝鮮に対し、西欧諸国の植民地の餌食にならないよう開国を促すための方策として征韓論をとなえたことは有名な話です。これに対し、日本がこれらの国に先駆けて近代化できたのは、江戸時代に儒教が、日本的変質を遂げた朱子学になったからだといわれています。
文明開化により、医学・科学・産業が進歩し、急速な西欧化によって旧来の習慣が捨てられ、多くの利益を得ましたが、大切なものを失った時期でもあります。子どもの教育も、寺子屋による個別支援教育から集団による学校教育に変わりました。そしてその後、儒教的基盤も徐々に薄れ、第二次世界大戦の敗北とともに儒教道徳は社会から完全に消滅しました。
 西洋社会では宗教があってそこから道徳が生まれ、道徳の指導方法も生まれてくるのですが、本質的に宗教的な背景がない日本においては、道徳の拠りどころとなるものを探すのは非常に難しいと思います。このような現代日本において、子どもの道徳教育に「五常」の教えを復活させることを考えてみても良いのではないでしょうか。(この原稿の儒教の部分以外は、三宅捷太氏の人権のひろ場80号の論考を引用させていただきました。)