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■ 貧困政策を社会的包摂政策へと転換する奨め

 日本の貧困が深刻な状況であることは疑う余地がありません。厚労省の2009年の公式統計値では、日本の相対的貧困率は16.0%と言う高さです。現代の貧困が恐ろしいのは、単に物質的欠如に止まらず、経済的貧困は例えば解雇により職場の同僚関係が遮断され、友人や親せきに会うことも憚られるというように他者との関係を奪われ、家族関係にも軋轢を生じます。こうして、徐々に社会から切り離されて行くことを「社会的排除(Social Exclusion)」といいます。社会的排除の行き着く先では、社会的に孤立し自尊心が傷つけられます。
 従来から行われて来た貧困対策は、貧困を競争原理によって動いている市場経済における必要悪と捉え、必然的に生じる敗者即ち貧困者を手当するという視点からの対策です。いままでの貧困対策では、例えば失業したから、学歴が低いから、離婚したから、障害を抱えているから等々問題は貧困当事者側にあると捉えます。
 しかし近年、ヨーロッパ諸国では、単なる物質的・金銭的な貧困対策から、社会的排除に対抗する「社会的包摂政策」へと転換が行われています。社会的排除の問題点は社会の側にあると発想を転換して理解するものです。社会のどのような仕組みが孤立を生みだすか、制度やコミュニティーがどのようにして個人を排除しているのか、ある人が低学歴となるのは教育制度に問題があるのではないか、職が得られないのは労働市場に問題があるのではないか、社会的孤立は社会の側から手を差し伸べることをしないからではないか、貧困者が人と繋がり合うことを躊躇する要因を社会の側が作っていないか等々、社会の仕組みや制度が、人をより、貧困へ、排除へ、孤立へと追い込んでいるのではないか。それならば、その仕組みや制度を改善できないか。これが「社会的包摂」の発想であり、この発想に基づいた貧困政策が「社会的包摂政策」です。
 労働を例にとって説明すると、競争原理下における市場経済では100%企業戦士が求められますが、子どもがいるとか、親の介護をしなければならないとか、精神的疾患を患っていて長時間労働ができないとか、社会の多くの労働者は100%企業戦士とはなれません。さまざまなハンディを抱えています。それを無理に企業戦士に仕立て上げるために、夜間保育所や、24時間介護施設など、対処していくためには膨大な財源が必要であり、何よりもそのような社会では人々は幸せにはなれません。それよりも、少々のハンディを抱えていても働けるような労働環境を整える方が得策です。
 勿論、そのような発想の転換と仕組みや制度の改善は易しいものではありませんが、企業も社会も真剣に労働環境や地域のあり方を見直し、どのような人でも包摂出来るように変容して行かなければならないのは必定です。それに成功した先には、社会のすべての人が働きやすい、住みやすい社会が出来上がり、ハンディを抱えた人だけでなく、すべての人にやさしい社会環境になることでしょう。
 最後に、貧困政策の発想の転換は、「障害学」における「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」への発想の転換と似ていますのでご紹介しておきます。
 「障害の医学モデル」においては、障害を個人の被る不利益とみて、障害の根本原因を個人の心身の特徴と捉え、これが克服されればその者の不利益はおのずと解消されるとします。
 これに対し「障害の社会モデル」においては、障害を、個人の心身の特徴と快適ではない物的社会的環境・障壁との相互作用から生じるものと把握します。
 即ち、障害は障害者の心身の特徴に起因し帰結するものではなく、障害を抱えている者が自由に活動できないような障壁を社会が内蔵していることが、障害者の心身の特徴を障害としているという発想です。私は左利きで常日頃不便を感じているので左利きを例にあげて説明するると、左利きという心身の状況が障害となるのはハサミが右利き用にできているという障壁があるからです。ハサミが、年齢、性別、身体的状況、国籍、言語、知識、経験などの違いに関係なくすべての人が使いこなすことのできるユニバーサル・デザインに設計されていれば、左利きは障害とはならないと言うことになります。
 今の日本の社会に必要なのは、ユニバーサル・デザインに設計されている労働市場であり、社会であり、地域ではないでしょうか。
(この原稿を作成するにあたっては、阿部彩氏の人権の広場88号の論考を参考にさせていただきました。)