さて、ある大学の教務部で、「そこの君、果たして君は大丈夫」という紙が貼ってあったそうです。何のための貼紙かというと、学生に必要最低限度の意思を自分から伝えて欲しいという趣旨の貼紙だったそうで、そうでないと、学生は教務部の前で用ありげに立っている、「何?レポート?」と聞くと、「ハイ」とも言わずこつくりとうなずく、「誰先生のレポート?」と聞くと、「○○先生」、「で、科目は?」「○○論」、「それで君は?」「誰の誰べえ」、「何学科の何年生?」、「○○学科の○年」、やれやれ手間が掛って大変。せめてこれくらいのことは一遍に纏めて言ってね、君はこれ位できますか?大丈夫?という問いかけの貼紙だったそうです。大学生にして今どきはこうです。学生は携帯を持ち、メールだと楽に話せるが、面と向かって会話するのは苦手という学生が多いようです。 学生だけでなく最近の日本人は皆、コミュニケーションが乏しくなっているのではないでしょうか。たまに会話らしいものがあっても、コンビニの買い物で心のこもらない機械的な声で「いらっしゃいませ、こんにちは」とマニユアル的に言われても会話にはなりません。会話ができない原因は、声を出さなくても生活ができることが大きいと言う人がいます。昔は、電車に乗るにもまず「柏原まで大人2枚」とか、ビールを買うにも「キリン大瓶6本」といっていました。しかし今は、乗車券を買うのも自動券売機で、缶ビールを買うのもスーパーで黙って籠に入れるか自販機で、銀行でお金をおろすのもATMで。子どもの遊びも昔のように原っぱでワイワイガヤガヤと三角野球をしたり、かくれんぼするのではなく、独りで黙って黙々とゲーム機で遊ぶ。言葉は一切不要です。 また、交差点の横断歩道では音楽が流れて渡れることを知らせます。これは視聴覚障害者への親切のためにあるものの、本来なら居合わせた人が「今渡れますよ」とか「一緒に渡りましょう」と声をかけるのが本当の親切ではないでしょうか。このような音楽の流れる信号機は欧米にはないそうです。もちろん発展途上国にも。自動販売機も日本以外の国では少ないそうです。このような信号機や自動販売機の多い日本は、本当に機械化されて便利で親切な国なのでしょうか。過度の機械化に陥っているのではないでしょうか。 大阪鶴見ロータリークラブの会員の皆様が子どもの頃や、青年の頃は、このような機械化が進んでおらず、社会での会話や親切が当たり前の時代ではなかったでしょうか。一見便利に見える機械文明が、人間同士が助け合う気持ちの芽や、コミュニケーションのチヤンス、善意の援助の手を差し伸べる人間の触れ合いの機会を摘んでいるのではないでしょうか。社会での会話がなくなってきているのは恐ろしいことです。人間同士が助け合うことが社会生活の中でいかに尊いものであるか、私たちは今一度考え直すべきときにきているのではないでしょうか。 それと、クレーマーやモンスターペアレントが急激に増えています。本当なら自分が責任を負うことでも相手のせいにして過剰な権利主張を行い、自分の責任を逃れようとする傾向が甚だしくなってきているように思います。これらの底流には、コミュニケーションや思いやりの貧困という現代の乾いた人間関係の問題が潜んでいるように思います。 このような状況から脱却し、心のこもった本当の会話を復活させ、血の温もりの感じられるような人間のふれあいのある日本の社会を取り戻すためには、今何かをしないと手遅れになるのではないでしょうか。我々にできることは何かないのか。難しいことは重々承知しておりますが、このような社会を取り戻すことに資するようなロータリーの社会奉仕活動が何か考えられないものでしょうか。(この原稿を作成するにあたっては、佐藤功太郎氏と後藤美代子氏の人権の広場42号、43号の論考を参考にさせていただきました。)
|