戻る
■ 世界人権宣言の成り立ち

今日は田中作次RI会長の「奉仕を通じて平和を」のテーマに通じる話をさせていただきます。
 今世界の紛争地や虐殺が行われている地で、人権救済と世界平和のために多くの方々が貢献されています。その中には多くのロータリー平和フェローが参加されていると何かで読みました。
 ロータリー財団では、世界理解と平和・紛争解決に捧げる姿勢を持ち、世界を良い方向に変えて行く担い手を育成するためのプログラムを設けており、このプログラムを終了した者がロータリー平和フェローと呼ばれています。そしてこれら平和や国際紛争の解決に貢献されている人たちの活動の法的よりどころとなっているのが世界人権宣言なのです。
 ところで平和と人権とはどのような繋がりがあるのだろうかと言いますと、世界人権宣言の成り立ちを見ればわかります。世界人権宣言ができたのは、第二次世界大戦において多くの尊い人命が奪われ、悲劇と破壊がもたらされた反省の基に、平和を実現するためには差別を撤廃し、人権を促進することが絶対に必要で、人権を重視することが恒久平和に通じるという認識が世界の趨勢となっていました。このために1945年の国連創設会議において国連憲章には人権尊重の基本原則だけを定め、具体的内容は1946年に設立された人権委員会に委ねられました。そして、1948年12月10日の第3回国連総会において「世界人権宣言」が採択されたのです。
 採択に至るについては、2つの幸運に恵まれたと言われています。1つは、1948年頃はまだ米ソのイデオロギーの対立がそれほど深刻化していなかったこと。2つはアメリカの人権問題担当の代表がエレノア・ルーズベルトだったことです。
 エレノア・ルーズベルトとは、故フランクリン・ルーズベルト大統領の奥さんです。彼女は1946年の第1回国連総会のアメリカ代表団のメンバーに入っていました。この第1回総会では、各論点の担当を割り振る際に、誰もがやりたがらない人権担当の代表を彼女が受け持ちました。
 彼女がアメリカのメンバーに入ったのは、国連を作ることに非常に熱心に取り組んだルーズベルト大統領の後を引き継いだトルーマン大統領の政治的配慮から選ばれたということです。エレノア・ルーズベルトは、法律家でもなく専業主婦でしたが、非常に観察力の鋭い人で、また大統領夫人として大統領のそばにいて、女性に対する差別や人種差別などの人権に関する知識が身に着く立場にいたので、人権問題を的確に観察し、心の中で自分の考えを醸成していました。彼女は、政治家のように原則はこうだが現実はこうだと妥協することなく、政治的な取引に応ぜずに人権の理想を主張し続けました。しかも第二次大戦後に世界一の大国となったアメリカの代表の発言権は大きく、彼女の主張が反映して、1946年に人権委員会ができ、また国の利害に関係なく意見が言えるようにと1947年に個人的資格の人権促進保護小委員会ができました。そして、1948年に賛成48、反対0、棄権8で世界人権宣言が採択されたのです。
 なお、この人権委員会は、最初は経済社会理事会の下の機関でしたが、今では経済社会理事会と並ぶ人権理事会に昇格しています。この人権理事会のもとで、現在では全加盟193カ国を対象に「人権状況の定期審査」が行われております。